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『神にあって喜び勇め』

説教:髙橋正人牧師

はじめに

本日は、預言者ハバククの祈りを通して、主なる神の偉大さを知って喜び勇む信仰を見てまいります。

Ⅰ.常に主と向き合い、主に祈れ

ハバククは南ユダ王国の末期、ヨシヤ王の死後から立てられた預言者の一人でした。ヨシヤ王の戦死によって、主なる神への畏れが失われ、国は秩序を失っていました(ハバクク1:2-4)。主がハバククに語られたことは、国内の混乱に加えて、国外からも襲撃があるというこれまで以上に事態が悪化するというものでした(ハバクク1:6-7)。ハバククは、一見理解不可能に見える主の言葉にもかかわらず、主に祈ることをやめませんでした。むしろ、ますます主に向かい祈り続けました。その結果、主の偉大な救いを知らされたのです。

主イエスは、いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、不正な裁判官のたとえをもって話されました(ルカ18:1-8)。また、主イエスは、「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(ヨハネ14:14)と約束してくださったように、私たちは常に、主イエスの御名によって祈ることが許されている幸いにあることを覚えましょう。

Ⅱ.正しい人は信仰によって生きる

イスラエルのさばきのために、バビロン(カルデヤ人)という悪しき国(ハバクク2:6,9,12,15,18)が用いられるとは、ハバククにとって、どうしても理解できないことでした。主は、「うぬぼれていて、まっすぐでない」カルデヤ人に対するさばきをハバククに告げます(ハバクク2:2-4)。

義なる主から、さばきを免れる者は誰一人としていません(ローマ3:10)。しかし、主は、「正しい人はその信仰によって生きる」(ハバクク2:4)ことを語られます。これは究極的には、キリストを信じる信仰による救いと命の道を指し示しています。

主イエスの十字架の贖いによって、誰でも信じる者は神の前に「正しい人」とされるのです。それは、主イエスが十字架で私たちの罪の身代わりとしてさばきを受けてくださったからです。ですから、私たちは主イエスの救いによって、キリストの溢れる命に生きる者とされたのです。主イエスの十字架の救いを頂き、主の前に義とされた者としてふさわしく、主と共に生きようではありませんか。

Ⅲ.主にあって喜び勇め

ハバククは迫っている絶望的な状況の中から、「しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」(ハバクク3:18)と主を賛美しました。それは、彼が主のさばきの先にある、赦しと回復を、信仰によって見ていたからです。それは、主は罪を徹底的にさばかれるお方であると同時に、「あなたは、ご自分の民を救うために出て来られ、あなたに油そそがれた者を救うために出て来られます。」(ハバクク3:13)とある通り、救いの約束を成就してくださる赦しの神であることを信じていたからです。

私たちも、ハバククのように、困難や問題の中にあっても、主を賛美することができることを覚えましょう。先が見えなかったとしても、主は「私の力」であり、「私の足を雌鹿のようにし、私に高い所」(ハバクク3:13)、すなわち、主が共にいてくださる安全な歩みをさせて頂けることを感謝しようではありませんか。

主が与えてくださる喜びは、消えてしまうことがなく、いつまでも続きます。主イエスの十字架の贖いこそ、私たちの喜びであり、勇んで、世に勝利をする者とされることを感謝しましょう。

結び

ハバククは、終末のことも含めて、国が滅びてしまうという危機的な時代に立てられた預言者でした(ハバクク3:17)。私たちも今、終末に生きる者として、この時代に生かされている一人一人です。今の時代に生かされているからこそ、「正しい人はその信仰によって生きる」ことを覚えましょう。そして、主の救いを頂いた者として「しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう」と主を賛美するものとされようではありませんか。

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