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『からし種ほどの信仰』

説教:髙橋正人牧師
聖書箇所 マタイ17:14-21

はじめに

変貌山から下った主イエスは、麓でてんかんの少年を癒されました。本日の聖書箇所から、私たちの信仰について、もういちど見てまいります。

Ⅰ.変貌山上と麓(ふもと)の現実

三人の弟子たち(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)は、高い山で主イエスの神の御子としての本来の御姿を見るという偉大な体験をしました。その後、山を降りた麓では、他の弟子たちが、てんかんの少年を癒やすことができずにいました。それを見た主イエスは、そこにいた人々全ての不信仰を嘆かれましたが、その少年を癒されました。

弟子たちは、変貌山で素晴らしい神の臨在に触れましたが、山の麓ではこの世での現実が待っていました。しかし、主イエスは、まさにこの世の現実を知っておられ、その中で、私たちと共におられるのです(創世記22:14マタイ1:23)。私たちも主を礼拝するために、教会という変貌山に集い、御言葉を通して主イエスと出会います。主に励まされ、恵みと祝福を頂き、信仰をもってそれぞれの所に遣わされます。しかし、現実を見た途端、「そうはいっても・・・」と、主から頂いたばかりの信仰を失ってしまうのではないでしょうか。現実はそうだ、しかし「そうだからこそ」、なお主を信じ、主に期待しようではありませんか。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」(ローマ10:11)のですから。

Ⅱ.主は、私たちの弱さを知っておられる

主イエスは、十二人の弟子を選ばれました(マタイ4:19,21)。それは、弟子たちを通して、主イエスとその救いの御業を全ての人々が知るためでした。それにも関わらず、山の麓では、弟子たちや癒やしを求めた人を含めて、すべての人々が、主を信じることができずにいました。主はその状態を、「不信仰な、曲がった今の世だ」(マタイ17:17)と言って嘆かれました。

主イエスは、人々の不信仰を嘆きながらも、なお「その子をわたしのところに連れて来なさい」と命じられ、子どもを癒やされました。主は、昔も今も変わることなく、信仰の薄い者を憐れんでくださり、信仰を見失ってしまっている者たちを励まし、解決を与えてくださいます。主は、私たちが抱えている問題や重荷を、主の十字架の基に持って行くことを許してくださっています。そして、解決を与えてくださることを信じましょう(ヘブル4:15-16)。

Ⅲ.からし種ほどの信仰

子どもが癒された後、弟子たちはそっと主イエスのところに来て、悪霊を追い出せなかった理由を尋ねます(マタイ17:19)。弟子たちは、確かに主イエスから神の権威を授けられました(マタイ10:1)。しかし、弟子たちは、いつの間にか神から与えられた権威を、自分たちにはじめから備わった能力であるかのように考えてしまっていたのでした。

今持っているものはすべて、主から頂いた賜物です。現代のクリスチャンが、そして、教会が常に肝に銘じておくべきことです。これを忘れる時、「主の名によって」と言いながら、実は、神ではなく自分や神以外のもので行っているのです。ここには、信仰は全くありません。それを主イエスは、「あなたがたの信仰が薄いからです」と指摘されました。

主は、「もし、からし種ほどの信仰があったら」と言われました。「からし種」とは、極めて小さいものですが、小さくても、あるかないかは大きな違いがあります。からし種ほどの信仰とは、主イエスが、いつも私たちと共におられることを信じることです。主は、「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(マタイ28:20)と約束してくださいました。主がいつも共にいてくださるとき、山をも動かす偉大な主を知るのです。

結び

変貌山での体験と、山の麓での現実には大きな違いがありました。しかし、主イエスは私たちを知っており、どんな時も共にいてくださいます。信仰生活と現実に生きる生活のどちらにも、主は共にいてくださいます。それは主の約束だからです。現実を見て、「そうはいっても・・・」ではなく、現実は「そうであっても」、私は主を信じ、主に期待するという信仰に生きようではありませんか。現実にあるからこそ、主の偉大な御業の栄光を見せて頂くことができることを覚えましょう。

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