『主はわが旗』
はじめに
本日の聖書箇所から、アマレク人の来襲という大きな危機にあって、主はイスラエルの民を守り、助けを与えられたお方であるということを見てまいります。
Ⅰ.丘の頂きでの祈りと、麓(ふもと)での戦い
アマレク人の来襲という危機において、モ-セはヨシュアに戦いの準備をして、敵を迎え撃つための指揮を任せました(出エジプト17:9)。モ-セ自身は、神の杖を手に持って、丘の頂に立ちました(出エジプト17:10)。戦況は、丘の頂でモ-セが手を上げている間は、イスラエルが優勢となり、モ-セが手を降ろしているとアマレクが優勢となりました(出エジプト17:11)。
この戦いにイスラエルは勝利しますが、この勝利は人の力によるのではなく、主の力によるものでした。モーセが丘の頂で手を上げているというのは、とりなしの祈りの姿を現しています。すなわち、この勝利は、祈りを通して主が共に居てくださることによってもたらされたものであることを教えています。
現代の私たちは、丘の頂におけるモーセのように、主を礼拝し、祈りにおいて、神が共に居てくださることを知り、主から力を頂くのです。そして、麓である遣わされた所において、具体的な歩みを主に支えられて、勝利へと導かれるのです。主を礼拝し、御言葉に聞き従って、置かれている所で、主の勝利を勝ち取らせて頂きましょう。
Ⅱ.主を礼拝し、互いに祈り合う
アマレク人との戦いは、一日続きました。モ-セは疲れを覚えて、手を上げていられなくなると、アロンとフルがモーセを助けたのです。彼らは、モーセのために石を取り、それぞれモーセの両側に立って、モ-セの手を支え続け、祈りが絶えないようにしました。
私たちクリスチャンの信仰生活は、ある時は丘の頂で主を礼拝し祈る者であり、ある時は、麓で実際に戦う者でもあります。このことは、信仰と実生活の二つが、それぞれ独立しているということではなく、両方が一つであるということです。
さらに大切なことは、麓で戦っている時に、その戦いの背後には、丘の頂で祈っている信仰の仲間たちのとりなしの祈りがあるということです。自分ひとりで祈ることは大切ですが、互いに執り成し合って祈ることの大切さと恵みを教えています。教会の交わりは、兄弟姉妹たちが互いに執り成しの祈りをするものであり、丘の頂における祈りと麓での戦いとが一つとなって、主の栄光が現されるのです。私たちはまず、主を礼拝し、祈りを捧げましょう。そして、互いに私たちの隣人のために執り成しの祈りをする者とさせて頂きましょう。
Ⅲ.偉大な執り成し手、イエス・キリスト
聖書には、「私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」(ローマ8:37)とあります。これは、この世における私たちの信仰生活の歩みは、敵対する力に囲まれており、常に戦いの中にあるということを教えています。しかし、私たちクリスチャンは、主イエスを信じる信仰によって、圧倒的な勝利者とされているのです(Ⅰヨハネ5:5)。
罪人の身代わりとして十字架にかかって死んでくださった主イエスは、復活後に天に昇られ、今は、父なる神の右の座にあって、私たちのためにとりなしをしてくださっています(ヘブル10:12)。私たちは今、主イエスの丘の頂きの祈り、すなわち、父なる神の右の座の執り成しに支えられて、麓での戦いであるこの世における信仰の歩みを戦い抜き、約束の地である御国を目指して旅を続けているのです。主イエスの執り成しに支えられていることを覚えて、兄弟姉妹のために執り成しの祈りをし、互いに励まし合って信仰の戦いを歩み続けましょう。
結び
モーセはアマレク人との戦いの勝利は、主のものであるということを知っていました。それで、主による勝利を記念して、祭壇を築き、その祭壇に「主はわが旗」(出エジプト17:15)と名付けました。主イエスの十字架と復活は、この世のいっさいのものに主が勝利されたことの宣言です(ヨハネ16:33)。主イエスの十字架という勝利の旗の下で、「主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行く」ことを覚えましょう。