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『主よ。私は信じます。』

説教:髙橋正人 牧師
聖書箇所 ヨハネ9:35-41

はじめに

本日の聖書箇所から、主イエスによって目を癒された人のことを通して、人が主イエスと出会って救われるということについて見てまいります。

Ⅰ.主は私たちを礼拝へと導いてくださる

ここには、生まれつきの盲人が、主イエスによって見えるようにしていただいた事の結末が記されています。目が見えるようにされた人は、ユダヤの宗教指導者たちに主イエスについて尋問され、最後にはユダヤ社会から追放されてしまいます。その後、主イエスは彼を見つけ出し、「あなたは人の子を信じますか」(ヨハネ9:35)と声をかけてくださいます。彼は主イエスの語りかけに、「主よ。私は信じます。」と告白して、主を礼拝しました(ヨハネ9:38)。この人は、肉体の目と共に、主なる神を知る霊の目も開かれて、主を信じて神を礼拝する者と変えられたのです。

主は、御心に従って、私たちの様々な問題や苦難を解決し、助け出してくださいます。しかし、問題が解決してそれで終わりというのではなく、その事を通して、私たちが神の力と愛を知って神を崇め、神を愛する者となるようにしてくださいます。「苦難の日にはわたしを呼び求めよ。わたしはあなたを助け出そう。あなたはわたしをあがめよう。」(詩篇50:15)主を知って、主を礼拝すること、これにまさる幸いはないことを覚えましょう(詩篇16:2)。

Ⅱ.霊の目を開いていただく=主イエスを受け入れる

主イエスは、盲人であった者の目を癒やし、彼に光を与えたばかりではなく、彼の人生にキリストの光を与えて、神の命によって新しく生きる者とされました。主は、罪の世に在る私たちに光を与えるために、「世の光」として来てくださいました(ヨハネ8:12ヨハネ9:5)。暗闇の中では、私たちは何も見ることができないのと同じように、罪が支配する暗黒の世では、主なる神を知ることはできません。しかし、今や、全ての人が、イエス・キリストによって、神を見る光が与えられているのです。

私たちは、主イエスに出会うまでは、神を知らず、永遠の命から遙かに遠く離れており、霊的に「生まれつきの盲人」でした。主は、この盲人の目を開け、霊的な目をも開けて御自身を示されたように、私たちの霊の目をも開けてくださいます。主の前に、悔い改めと信仰をもって進み出るなら、主はあなたを主にある新しく造られた者としてくださり(Ⅱコリント5:17)、神の真の命を与えて(ヨハネ3:16)、主の恵みの内に生きる者としてくださるのです(ローマ6:23)。

Ⅲ.さばきの後にある主の赦しと恵み

主は、ユダヤの宗教指導者たちに向かって「わたしはさばきのためにこの世に来ました」(ヨハネ9:39)と語られました。彼らは、聖書やユダヤの伝統に精通し、人を神へと導く者であると自負していました。しかし、実際には、彼らが最も目の見えない者で、彼らの目の前で盲人が見えるようになったという神の奇跡を見ていながら、イエスが神の子、キリストであることを信じませんでした。彼らは、「私たちは目が見える」と言って自分たちを規準として、神の前にへりくだりることをしなかったのです。自分が主の前に盲目であることを認めることなしには、主イエスに目を開いていただくことはできません。

私たち全ての罪のさばきは、神の御子イエスが、十字架で全て受けてくださいました。主イエスを受け入れ、信じるなら、だれでも主の救いを頂くことができるのです。私たちは、主の十字架の贖いによって、「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません」(詩篇23:1)と、主と共に豊かな命に生きる者とされたことを感謝しようではありませんか。

結び

主イエスが「盲人に生まれついた」人の目を見えるようにされた事は、私たち一人ひとりのことでもあります。主の偉大な救いとは、肉体の目が癒やされることだけではなく、霊的に盲目になっていた私たち全ての者の目を見えるようにして、主を知るようにしてくださることです。私たちは今、聖霊によって、主を知る者とされています(Ⅰコリント12:3)。主は、御言葉が、しるしと不思議を伴って現実となっていること、主御自身が私たちと常に共におられることを示して下さっていることを覚えましょう。

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