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『変貌山のキリスト』

説教:髙橋正人 牧師
聖書箇所 マルコ9:1-13

はじめに

本日の聖書箇所から、三人の弟子たちが、変貌山で主イエスの御姿を見、神の御声を聞いた出来事を見てまいります。

Ⅰ.主イエスの栄光の御姿

主は、三人の弟子(ペテロ、ヤコブ、ヨハネ)を連れて高い山に登られます。それは、主イエスの救いの御業は、主イエスが多くの苦しみを受け、殺されることだけではなく、栄光に満ちた神の支配によることを示すためでした。

三人は、御姿が変わった主イエスだけではなく、旧約聖書を代表するエリヤとモ-セを見ました。モ-セは律法を、エリヤは預言者を代表しており、二人が主イエスと共にいるということは、旧約聖書の約束が主イエスによって完成することを示しています(ルカ9:30-31)。

主イエスの十字架の贖いは、旧約聖書時代から主が約束してくださった救いの成就です。主の救いを、信仰によって受け入れる時、私たちの罪が赦されるだけではなく、聖霊によって主と同じ姿に変えられるのです(Ⅱコリント3:18)。キリストの贖いの恵みによって義と認められた私たちは、永遠の命の望みによって、御国を受け継ぐ相続人とされていることを覚えて(テトス3:7)、主の御名を高らかに誉めたたえようではありませんか。

Ⅱ.主の栄光の御姿を理解できなかった弟子たち

栄光の主イエスの御姿を見たペテロは、恐怖と共に素晴らしさに打たれて、主とモーセとエリヤのために、幕屋を三つ造ることを語りました(マルコ9:5)。ペテロは、この栄光の出来事を全く理解することができず、ただ、輝かしい姿を留めておこうと、三人が住まうための場所を用意しようとしたのです。ペテロは、真の救い主の栄光と神の支配は、救い主の十字架の苦難を通してもたらされるという最も大切なことを全く理解していませんでした。

霊的な素晴らしい体験は、父なる神が私たちに主の御心を知らせるため、また、教えるために与えられるものです。しかし、三人の弟子たちの霊の目は閉じられていて、主の奇跡を正しく理解することができませんでした。それ故に、「イエスは彼らに、人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない、と特に命じられた」(マルコ9:9)のです。私たちは、聖霊の働きにより様々な霊的体験をさせて頂くことがあります。しかし、大切な事は現象だけに捕らわれて勝手に主の御業を判断するのではなく、御言葉をもって吟味しつつ、主の御心を深く知ることです(Ⅰヨハネ4:1)。

Ⅲ.主の御言葉に聞き従う

ペテロが、幕屋を建てることを話していると、雲の中から「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい」(マルコ9:7)という父なる神の声がありました。神の栄光は、主イエスに聞くことによってのみ示されることを教えています。

弟子たちは、これまで主イエスが語ってこられた言葉の真の意味を理解できなかったために、受難の予告を聞いた時、主イエスをいさめたり、栄光の主の御姿を見た時には、訳も分からないままに自分のもとに留めておこうとしたのです。主の御言葉に聞くとは、常に、自分の思い描くキリスト像に縛られるのではなく、御言葉に従って「自分を捨て、自分の十字架を負い」、主イエスに従って行くことです(マルコ8:34)。

私たちは、御言葉に聞き従い、繰り返し御言葉に心を留めて、復活の栄光に包まれた主イエスの御姿を仰ぎ見て歩んでまいりましょう。私たちにとって、弟子たちが変貌山で体験した主の栄光に触れるということは、毎週の礼拝の場なのです。ここにおいて、主の十字架の贖いのための死と、栄光に輝く復活の御姿が示されいます。そして、復活の主の栄光を体験して後に、山を降ってそれぞれの所へと遣わされて行くことを覚えましょう。

まとめ

主イエスが再臨される時、私たちキリスト者は全て、主と同じ栄光の姿に変えられます(Ⅱコリント3:18)。この栄光の姿とは、ペテロたち三人が変貌山で見た主イエスの姿です。それは主イエスを信じた時に、すでに聖霊によって始まっています。毎週の礼拝において、聖書の御言葉を通して、十字架と復活の主がご自身を現してくださっています。ですから、私たちはしっかりと現実と向き合いながら、主にある大きな希望をもって歩み続けることができるのです。主が語り、示してくださった御言葉に留まり応答して歩んでまいりましょう。

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