礼拝説教

礼拝メッセージ

ホーム > 礼拝説教:2014年礼拝メッセージ

『神の祝福を求めて』

説教:髙橋正人 牧師
聖書箇所 創世記32:22-32

はじめに

本日の聖書箇所から、主によって「イスラエル」という名を与えられた人、ヤコブについて見てまいります。

1.誰にでも「ヤボクの渡し」がある

ヤコブは、兄エサウから逃れるため、おじのラバンのもとで20年を過ごした後、自分の故郷に帰ろうとしていました。しかし、彼は故郷が近づくにつれて、兄エサウからだまし取った長子の権利のことで、兄への恐れを大きくして行きます。ヤコブは、ヤボクの渡しにおいて、過去の自分の罪によって生じた苦しみに直面したのです。

ヤコブはこれまでのように、自分の知恵や能力によって、可能な限りを尽くして危機を乗り越えようとしました(創世記32:13-23)。しかし、彼は主に拠り頼まなければ、平安を得ることはできませんでした。

私たちの人生にもこの「ヤボクの渡し」のように、どうしても向かい合わなければならない転機があります。その時こそ、主と一対一で向かい合い、取り扱いを受け、祝福を頂く恵みのチャンスであることを覚えましょう(ピリピ4:6-7)。

2.「ヤボクの渡し」で主を仰ぐ

ヤコブの家族がヤボク川を渡った夜、彼は一人で「ある人」と格闘をします(創世記32:24-28)。彼はこれまで、主を求めたことはありませんでしたが、この危機の中で、主と向き合う機会を得たのです。万策尽きて初めて、ヤコブは主と格闘するまでに、祝福を願ったのです。

私たちも、時として「人生のヤボクの渡し」で、主と向き合って格闘しなければならないことがあります。それはある人にとっては恐れや不安、過去へのこだわりであるかもしれません。また、主への罪を悔い改め、主と共に歩む決心をするということもあります。そこで、主に救いを呼び求める時、私たちは、主にある新しい道を歩むようにさせて頂けることを覚えましょう。

クリスチャンは、主イエスの十字架の贖いによって、古い罪の自分に死んで、新しい者とされました。いま世にあって生きているのは、御子イエスを信じる信仰によっていることを覚えて、主に感謝しましょう(ガラテヤ2:20)。

3.主の祝福に生きる幸い

ヤコブは主と格闘したことによって、主によってもものつがいを打たれ、足をひきずるようになります。聖書では、「もものつがい」は、からだを支える力のあるところで、これが「打たれた」とは、主に自我が砕かれたことを意味します。ですからヤコブの格闘は、主によって自我を砕かれたことで、自分が主の祝福を受けるに相応しくない者であることをはっきりと認めながら、約束の御言葉に信頼する、祈りにおける格闘なのです。

この格闘で、ヤコブは主から「イスラエル」という新しい名を与えられます(創世記32:28)。「名をつける」とは、その人の上に支配権を持つことを意味します。ヤコブはこの時、主の顔が自分に向けられていることを知り、全てが主の支配にあることを理解したのです。ヤコブは主と格闘した場所を「ペヌエル(神の顔)」と名づけました。彼は、地名を付けたことによってこれから自分が住む土地を、支配することとなります。

主に全く信頼する者は、今ある環境に振り回されるのではなく、逆に、霊の目で正しく支配することができることを示しています。主の支配に服従するものは、真の意味において自由な歩みをさせていただけることを感謝しようではありませんか。主に信頼する者は、ゆるぐことなく、とこしえにながらえるのです(詩篇125:1)。

まとめ

主はヤコブをイスラエルとしてくださったように、私たちは主イエスの十字架の贖いによって「キリストのもの」「クリスチャン」という新しい名を頂いたのです。私たちは、主イエスによって神の子とされ、主の民イスラエルの一員とされ、主との交わりに生きる者とされたことを感謝しましょう。どんな時にも、主の顔を認めて歩むことができる幸いを覚え、信仰の歩みをしてまいりましょう。

このページのトップへ

日本アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団

神召キリスト教会

Copyright (C) Shinsho Church. All Rights Reserved.
〒114-0023 東京都北区滝野川 6-64-9
最寄り駅:JR板橋駅東口から3分/都営三田線新板橋駅から6分