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『主の救いを見る』

説教:髙橋正人 牧師
聖書箇所 ルカ2:22-38

はじめに

本日は、エルサレムの神殿で、幼子のイエスに出会った二人を見てまいります。

1.主の慰めを待ち望んでいたシメオン

シメオンは、宮で幼子イエスと出会い、腕に抱いて神を賛美しました。幼子に出会ったのは、偶然ではなく「御霊に感じ」たこと、すなわち、聖霊に導かれてのことでした(ルカ2:25)。

彼は、「イスラエルの慰められること」を待ち望んでいる者でした。「慰め」とは、単にイスラエルの政治的、軍事的独立などではく、罪のために荒れ果ててしまっている人々に、主の真の命が与えられることを意味するものです。

人の真の平和や喜びは、神との関係が正しくされてはじめて成り立ちます。「キリストこそ私たちの平和です(エペソ2:14-15)。主イエスは、父なる神と罪人との和解のために世に来てくださいました(マラキ4:5-6)。主イエスを信じる者は全て、主の十字架の贖いによって、罪が赦され、神との豊かな交わりに入れて頂いたのです。だれでも、主イエスを信じる者は救われるのです(ローマ10:13)。

2.主の贖いを待ち望んでいたアンナ

アンナという婦人は、エルサレムの贖いを待ち望んでいた人でした。この人は、夫と死に別れた後、断食と祈りにおいて主に仕え、主が恵みによって世に慰めをもたらすことを願い求めていました(ルカ2:36-37)。アンナもシメオンも、逆境の中で、救い主と出会って神を賛美したのです。彼らは、何時与えられるのか分からない慰めにもかかわらず、長い間、主を信じて、待ち望み続けたのです。しかし、主を待ち望むこと自体が、彼らの力となったのです(イザヤ40:31)。

私たちの人生には、一人ひとりに様々な苦しみや悲しみ、不安があります。いつ慰められるのか、解決はどこにあるのか、全く見えないような状況にある方もいるでしょう。真の慰めは、神のひとり子である主イエスにあります。主は、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」(イザヤ9:6)として、私たちと共に歩んでくださいます。

救い主の幼子の姿を見た時、アンナは主に感謝を捧げて、幼子イエスのことを人々に伝えました。シメオンもアンナも、主イエスの言葉や行動を見て救いを確信したのではなく、幼子イエスを見て、いま始まった主の救いを信仰によって受け止めたのです。ここに彼らが主に感謝し、賛美をもって誉めたたえ、主の救いの御業を語り伝えた根拠があります。私たちも主イエスを見たことはありませんが、主を信じて愛する者とされたこと。そして、言葉に尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっていることを感謝しようではありませんか(Ⅰペテロ1:8)。

3.救い主イエス・キリスト

シメオンとアンナが、幼子イエスのうちに神の大いなる救いを見たことは、驚くべきことです。これは、人の知恵や理解を遙かに超えたことで、著者ルカが強調しているように、聖霊の働きによることです。聖霊は今も私たちの内に働いておられ、私たちにすべてのことを教え、また、主イエスが話したすべてのことを思い起こさせてくださいます(ヨハネ14:26)。

シメオンの腕に抱かれた幼子は、約30年の後、同じエルサレムで十字架にかけられ、全ての人の罪を背負って、苦しみを受け、御自身の命をもって完全な救いを成し遂げてくださいました。シメオンがその腕に抱いた幼子は、罪の贖いの捧げ物として死ぬために生まれた子でした。彼は、神の救いを確かに見たのです。それゆえに主を賛美したのです。

私たちがまず、何よりも知るべき第一のことは、主イエス・キリストです。主イエスの十字架の贖いによって、罪の赦しをいただき、主との豊かな命の交わりへと入れられたことを覚えましょう。主の贖いを信じて慰めに与るならば、シメオンの賛美は私のもの、あなたのものとなるのです。

まとめ

シメオンもアンナも、決して特別な人ではありません。彼らは、私であり、あなたなのです。彼らを導いたのは聖霊であり、聖霊は今も私たちの内に働いて、主イエスとの出会いへと導き、救い主を指し示してくださいます。人が、平安と感謝の内に主から与えられた人生を全うするために、知るべきこと、見るべきものは、一つだけです。それは主イエス・キリストです。ハレルヤ!

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