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『平和の王イエス』

説教:髙橋正人 牧師
聖書箇所 マタイ21:1-11

はじめに

本日の聖書箇所は、主イエスが、真の平和をもたらす王としてエルサレムに入城されたところです。主イエスこそが、平和の王であるということを見てまいります。

1.柔和な王として来られた主イエス

大勢の人々は、主イエスがエルサレムに入城する時、歓喜の叫びをあげて王として迎えました(マタイ21:8-9)。人々は、今こそローマ帝国の支配から自分たちを救ってくださるお方として、主イエスを歓待したのです。それは、「ダビデの子にホサナ」という民の声に表されていました。しかし、主イエスの入城は、人々が考えるような自国を解放する王としてではなく、「ろばの背に乗って」とあるように、神の国の王、すなわち、究極的な救い主としての入城でした。

この世の征服者は馬に乗って入城するように、当時、「馬」は力(軍事力)の象徴でした。しかし、主イエスは、弱さの象徴であるろばに乗って入城されました。主イエスは、力をもって裁きを行うためではなく、慰めと憐れみをもって、人を罪から解放し、父なる神のもとへ導く王として私たちの所に来てくださいました。「神は馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。主を恐れる者と御恵みを待ち望む者とを主は好まれる。」(詩篇147:10-11

主イエスは、「柔和な王」として、私たちに真の平和を与える王として世に来てくださいました。私たちが、真の王である主イエスを迎える時、父なる神との平和が与えられ、真の平安と自由を頂くことができるのです。真の王である主イエスを、いつでもあなたのうちに迎えましょう。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20

2.私たちに平和を与える王イエス・キリスト

平和な国、平和な社会を願わない人はいないでしょう。ここで聖書は、平和とは戦争や争いがない状態ではなく、「馬」を不要とし、「ろば」が尊ばれる世界に象徴されるものであることを教えます。さまざまな原因があるにせよ、争いごとは、結局のところ、人の心から生じるものです(マタイ15:18-20)。全ての人は、主の前に、その罪のために迷い出て無益な者となり、平和の道を見失っていました(ローマ3:12-17)。私たちは、心に平和を得て初めて真の平和を知り、また、周囲に平和を生み出していくことができます。主が与えてくださる「平和」とは、主だけが与えられるもので、世の何ものも与えることはできません。

私たちの心から争いを締め出し、平和で満たすために、救い主イエス・キリストはこの世に来てくださいました。主イエスは、私たちの身代わりに十字架にかかってくださり、罪を赦し、父なる神との平和を与えてくださいました(エペソ2:18)。「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」(エペソ2:14-15)私たちは、先に主の救いを頂いたものとして、主イエスによる平和が私たちの心を支配するようにして頂きましょう。「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」(コロサイ3:15

まとめ

主イエスは、真の平和の王として世に来てくださいました。ご自分の民の救いのために、十字架で自らの命を差し出してくださいました。それゆえに、私たちは父なる神との和解を頂き、また、神との平和を造り出すものとして先に神の民とされました(Ⅱコリント5:18)。主イエス・キリストにあって、平和を頂いたものとして、この大いなる恵みである主の救いを伝え、キリストにある平和を造り出すものとして用いて頂きましょう。「平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ5:9

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