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『主を求めて生きよ』

説教:髙橋正人 牧師
聖書箇所 アモス5:4-15

はじめに

アモス書には、背信のイスラエルに対する主の厳しい裁きが宣告されています。そんな中にも、主は救いのメッセージを語っておられます。御一緒に、主の招きを見てまいりましょう。

1.主を求めなさい

この時代のイスラエルは、一見、南北ともに経済的、政治的に比較的安定して栄え、信仰においても、聖所で神礼拝がなされているようでした。しかし、実際には、礼拝といっても、自己中心的で、形式的なもので、心から主を信じてのものではありませんでした。そのために、神の正義も恵みの業も一切が枯れ果て、民は霊的に非常に疲弊し、様々な社会問題や宗教上の堕落がはびこっていました(アモス2:6-8)。アモスは、その様な社会状況は、主への背信から生まれたことであり、主に対する罪は、厳しく裁かれることを語りました。

主の御心は罪ある者たちを裁くことではなく、罪人が主に立ち帰って、主に従って生きることです(エゼキエル33:11)。それゆえに、主は預言者アモスを通して、「わたしを求めて生きよ」(アモス5:4)と告げられます。主は、背信の民であるイスラエルに、主を求めて生きること、すなわち、救いを受けるようにといつも繰り返し語られます。「それゆえ、イスラエルよ、わたしはあなたにこうしよう。わたしはあなたにこのことをするから、イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ。」(アモス4:12

私たちは今、主イエスに出会う備えをしているでしょうか。あなたは、主と交わることを祈り求めているでしょうか。それが、アモスの使信です。主は、私たちが主を求めることを待っておられます。私たちが門をたたくなら、主は誰にでも、開いてくださいます。探す者は必ず見つけ出すのです(マタイ7:7)。主イエスは言われました。「だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」(マルコ11:24)。私たちは、どんなときも、常に主を切に知ることを求めましょう。

2.そして生きよ

主はもう一度「主を求めて生きよ」(アモス5:6)と語られます。この短い主の命令はとても重要な言葉です。それは、主によるのでなければ、誰も主の厳しい裁きから免れないからであり、主を求めることにしか救いの望みがないからです。また、この言葉にもう一つの大切な真理があります。それは、私たちが生きるということは、まず、主を求めることから始まるということです。言い換えるなら、主によって創造された私たち人間は(創世記1:27)、主を求めるということが最初にあって、それから、自分の生きる人生を見出して歩むということです。人生の目的や目標は、創造主なる神と出会い、このお方と共に生き、主が導かれる道を歩き続けることだからです。「人の主な目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。」(ウエストミンスター小教理問答)

アモスは、「公義を水のように、正義をいつも水の流れる川のように、流れさせよ」(アモス5:24)と語ります。主は私たちに、愛と正義が失われてしまったこの世にあって、主と共に生き、主の「正義」と「恵み」を満ちさせることを期待しておられるのです。これらは、私たち自身にはないもので、主イエスのみにあるものです。私たちクリスチャンは、この主の愛と正義によって救われたのです。私たちは、主イエスの救いの恵みを、それぞれが遣わされている所に流すための通り良き管として用いて頂こうではありませんか。

まとめ

人がその命を生きるのは、主を求めることから始まります。主を知らなかった時、人は生きる目的や目標を見失っていました。主イエス・キリストによって罪赦された私たちは、今、主と共に生き、主と共に歩むことによって、主のあふれる豊かな命に生かされていることを覚えましょう。このあふれる主の命は、決して渇くことがないばかりか、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出るのです(ヨハネ4:14)。

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