『キリストの奉仕者たち』
はじめに
本日は、パウロの伝道の働きに仕えたテモテとエパフロデトを通し、主への奉仕について一緒にみてまいります。
1.テモテとエパフロデト
パウロは福音を語ったことで逮捕され、裁判を受けるためにローマへ送られました。それを伝え聞いたピリピの教会は、パウロを励まし助けるために、テモテとエパフロデトを送りました。
テモテはパウロと「同じ心」をもって、主イエスに仕え、福音を宣べ伝えることに心注いだ者です。それをパウロは、「テモテのりっぱな働き」と評しています。
エパフロデトは、教会からの支援を届けるため、文字通り命がけでパウロの所まで旅をしました。そのために、彼は旅での疲れのためか、死ぬほどの重い病にかかり、パウロに看病されるようになってしまいました(ピリピ2:27)。パウロは、そんなエパフロデトを批判するのではなく、彼の信仰の動機を評価し、「彼は、キリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。彼は私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとしたのです」と言っています(ピリピ2:27-30)。
パウロがこのように語るのは、彼らが教会から遣わされた者であり、主から与えられた使命を精一杯果たそうとしているのを見たからです。人の評価と主の評価は異なります。例えエパフロデトのように人の目には足手まといのように見えるようなことでも、主の業を前進させることになることをパウロは知っていました(ローマ8:28)。主は私たちの信仰の動機を見てくださいます。結果は主が導いてくださるということを覚え、与えられた主の奉仕を忠実に行ってまいりましょう。
2.主は私たちを主の働きのために用いてくださる
主イエスの十字架の贖いによってクリスチャンとされた一人一人は、真の礼拝を捧げる共同体としての群れである教会に呼び集められたのです。救われてクリスチャンとなっているなら、当然主イエスのことを思い、主に仕えたいと願います。テモテもエパフロデトも主の働きのために、教会から遣わされました。彼らの成果は、それぞれ違いますが、パウロは彼らの主への奉仕は、それぞれ主の前に覚えられていることであると教えています。
私たちの周囲には、健康上の問題や生活に対する心配、興味ある仕事や趣味など、主のことよりも優先してしまうことが多くあります。私たちの心の中心に主イエス・キリストを置き続けるなら、また、主の愛のうちにあり続けるなら、優先順位、生活上のこと、将来の進むべき方向性について迷ってしまうことはないことを覚えましょう。
今、私たちが教会に呼び集められて信仰の交わりに入れられ、真の礼拝を捧げているのは、テモテがパウロに仕えたように、エパフロデトが精一杯自分のできることを主に捧げたように、先に、福音に仕えた多くの人がいたからです。福音を語る者がいなければ、誰も主を知ることはできません。私たちも、主から頂いた偉大な救い、主イエスの福音を宣べ伝える者とさせていただきましょう。「しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」(ローマ10:14-15)
まとめ
主は、私たち一人一人に賜物を与えてくださり、その分に応じて用いてくださいます。その用いられ方は、人それぞれで同じではないし、他者と比べる事もできません。むしろ、他者との違いに意味があります。「一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」(ローマ12:4-5)主イエスの救いを頂いた私たちは、主にある一致を保ち、互いに愛し合い、協力し合うように召されています(ピリピ2:2-3)。主に委ねられた奉仕を、感謝し、主に祈りつつさせて頂きましょう。