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『御言葉を聞く耳』

説教:髙橋正人 牧師
聖書箇所 マルコ4:21-25

はじめに

主イエスは、神の国について、多くのたとえをもって語られました。本日は、「あかり」と「量り」のたとえを見てまいります。

1.信仰の量りによって御言葉を聞く

主イエスは、目に見えない神の国や神の支配について、たとえをもって語ってくださいました。「あかり」と「量り」、どちらのたとえも、当時の日常生活のことで、話そのものは容易に理解できます。しかし、たとえの深い意味は信仰によらなければ悟ることができません。それが主イエスのたとえの、一つの大きな特徴です。

そこで、主イエスは、「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:23)と語られます。「あかり」とは、主イエス御自身を示しています。主は、「すべての人を照らすそのまことの光」(ヨハネ1:9)として世に来てくださいました。このキリストによって、私たちは罪赦され、神の子とされ、「地の塩」、「世界の光」とされたのです(マタイ5:13-14)。

さらに、「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます」(マルコ4:24)と教えます。私たちは、自分の内にそれぞれの量りを持っています。主が語られた御言葉を、自分の量りで、自分勝手に量って、聞く価値があるかないかを量ってしまいます。しかし、自らが量る量りに従って、「持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます」(マルコ4:25)と言われています。私たちは、神の恵みはこの程度だと小さく判断して、それに見合う量りを用意して、主の大能の力をあまりにも過小評価してはいないでしょうか。

2.聞く耳を頂く

私たちは、真の「あかり」である、主イエスを、信仰の目をもってしっかりと見続けなければなりません。主イエスを見続けるためには、御言葉を聞き続けなければなりません。御言葉を聞くとき、信仰の量りが大切です。私たちは、どのような量りで御言葉を聞いているでしょうか。もし、自分の思いや考えで御言葉を量り、評価し、自分の都合の良いことだけを聞いているなら、主の御言葉の偉大な恵みや力を頂くことはできません。

主の前に、悔い改めとへりくだりの心をもって御言葉に聞き、主に従う者とさせていただきましょう。主イエスは、十字架の贖いによって、私たちに「聞く耳」を与えてくださったことを感謝しましょう。主の御言葉を聞いた者には、人知ではとうてい計り知ることもできない主の偉大な恵みが与えられることを覚えましょう。

まとめ

信仰は、主の前に、私たちが徹底的に受け身になるところから始まります。主の御言葉を聞くことによって、信仰は始まるのです。もし、私たちが自分が聞きたいこと、あるいは、自分が語ることから始めているなら、主の御心を知ることはできません。「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。」(ローマ10:17)。私たちは、主イエスの十字架の贖いによって救いをいただいたのですから、信仰の量りによって御言葉を注意深く聞いて行きましょう。「ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。」(ヤコブ1:25

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