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『神の恵みを受けるために』

説教:髙橋正人 牧師
聖書箇所 マラキ1:1-14

はじめに

本日の聖書箇所から、主がマラキを通して語られたまことの礼拝について、見てまいります。

1.主は、どんな時にも私たちを愛しておられる

マラキは、イスラエルの民がペルシャ帝国の統治下で捕囚地バビロンから解放され、エルサレムに帰還し、神殿を再建して後に活動した預言者です。民は、新しいエルサレム再建のために、自分たちの信仰の土台であるエルサレム神殿の再建を行いました。彼らは何もない状態から家を建て、畑を耕し、家畜を育て、自分たちが生活する基盤を再建して行きました。しかし、イスラエルは依然としてペルシャの統治下にあり、領土もダビデ王時代の1割ほどしかありませんでした。

現状が変わらない中、民は、主は私たちを本当に愛しておられるのかと、疑問を持ちはじめます。主はそれに答えて、「わたしはあなたがたを愛している」(マラキ1:2)と語られます。主は、エサウとヤコブを例に出して神の特別の愛を述べます。すなわち、主は、恵もうと思う者を恵み、あわれもうと思う者をあわれまれるお方です。私たちは主の一方的な恵みと憐れみによって、神の民とされていることを覚えましょう。主は常にあなたと共に居てくださり、正しい道へと守り導いてくださることを覚え(詩篇23:3)、いかなる時でも主に信頼して歩んでまいりましょう(詩篇62:8)。

2.霊とまことによって神を礼拝する

イスラエルの民は、主を待ち望んでいるつもりですが、次第に、主を見失って行きます。それが、主を礼拝する祭司や民の態度に現れます。主を礼拝しているといいながら、人々は、礼拝に際し、主に「汚れたパン」や「盲目の獣」を平気で捧げるようになります(マラキ1:7-8)。民の礼拝は、主に対する畏れや敬虔さを欠き、主への反逆にさえなっているのですが、誰もこのことに気づかなくなっていました。祭司たちさえ「どのようにして、私たちがあなたの名をさげすみましたか」(マラキ1:6)と言うほど霊的に無感覚になっていたのです。マラキはその様な民に、主の御心を伝え、まことの礼拝を捧げるように語ります。

私たちは、主を「霊とまことによって」(ヨハネ4:23)礼拝しているでしょうか。私たちは、自分自身のからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげようではありませんか(ローマ12:1)。私たちの信仰において大切なことは、御言葉を聞いた時、言動が一致していることです(ヤコブ1:22-25)。

まとめ

主は、イスラエルの民が形式だけの礼拝、信仰生活を送っているのを御覧になり、マラキを通して、まことの礼拝をささげるように警告されます。教会の使命は主を礼拝し、御言葉を宣べ伝え、クリスチャンが主イエスに似る者として成長することです。ですから、主を礼拝することは、あらゆる事に先立ちます。礼拝を通して信仰生活が支えられ、福音宣教、信仰継承が成されて行きます。主イエスは、私たちが「霊とまことによって」主を礼拝することができるようにと、十字架で御自身の命を私たちのために捧げてくださいました。私たちは、主イエスの十字架の贖いによって、大胆にまことの聖所に入ることができることを感謝しましょう。「ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか」(ヘブル4:16)。

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