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『神への執り成し』

説教:髙橋正人 牧師

はじめに

本日は、偶像礼拝を行ったイスラエルの民の罪の赦しのために、主に執り成しの祈りをささげた、指導者モーセの信仰について御一緒に見てまいります。

1.見えない神を信じる

モーセは、神の民として生きるイスラエルに必要な教えを主から頂くために、シナイ山に上り四十日四十夜、主を待ち望みました。その間、民はモーセがなかなか山から降りて来ないことで、今後の自分たちについて不安をおぼえます。そして、アロンのもとに集まり、自分たちに先立って行く神を造るようにと迫ります(出エジプト32:1)。民は、自分たちを導いたのは主であるということを理解せず、自分たちに都合の良い神を造ることで安心を得ようとしたのです。これは、すでに主から与えられていた、「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない」(出エジプト20:4)という、十戒の第二の戒めに背くことです。

イスラエルの民の罪は、彼らが目に見える人間の指導者のみに注目して、指導者を立てられた主を見ていなかったことに原因があります。今日の私たちも、神ならぬものを神としてしまう罪があることに注意しましょう。主なる神は、ただお一人です。私たちは、目に見えない神を信じて、御言葉により聖霊に導かれて主と共に人生を歩み続けて行きます。「私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」(Ⅱコリント4:18

2.神に執り成しをするモーセ

主は、偶像を造って拝んでいる民を見て、モーセに直ちに下山するように命じます。そして、「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き留めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上っている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし,あなたを大いなる民とする。」(出エジプト32:9-10)と語られます。民はつい先だって、十戒を守り行いますと誓ったばかりなのに(出エジプト24:7)、早くもそれを破っているのですから、主の御怒りは当然です。しかし、モーセは、民の赦しのために主に執り成しをします。その執り成しの祈りは、自分の名が命の書から消されてもかまわないというものでした(出エジプト32:32)。

主はモーセの執り成しを受け入れて、赦しを与えてくださいました。これは一見、主が心を変えられたように見えますが、主は御心を変えるようなことはなさいません。主は、モーセの執り成しを待っておられ、それを受けられたのです。主は、執り成し手を立てて、さばきを思い直すことを望まれるお方です。なぜなら、主の御心は、昔も今も変わることなく、主を信じる者が一人として滅びることなく、永遠の命を得ることだからです(ヨハネ3:16)。

父なる神は、御子イエスを、私たちと神との間に立って執り成しをする者としてこの世に遣わされました。主イエスは、モーセよりはるかに優れた執り成し手として、十字架で御自身の命を捧げてくださいました。父なる神は、主イエスを復活させ、罪と死の恐れから私たちを救い出してくださいました。私たちは、主イエスを信じる信仰によって罪を赦され、神の民として生きるようにさせていただいたのです。「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」(ガラテヤ5:24)。主イエスを復活させた主の命に生きる者とされた私たちが今、御霊によって生かされているのなら、御霊に導かれて、進んでまいりましょう。

まとめ

モーセは、イスラエルの民がその罪によって滅ぼされようとした時、主の前に立ち、民のために執り成しをしました。これによって、主は民を滅ぼすことを思い止まられ、民は約束の地を目指して歩み続けることを許されました。これは、主イエスが私たちの執り成し手として、十字架の贖いを成し遂げてくださったことの雛形です。主イエスの執り成しは、モーセのそれをはるかに超えたものであり、私たちに救いの完成と永遠の命への希望を与えるものです。私たちは主イエスの執り成しによって、今も主と共に歩んでいることを覚え、主に感謝しつつ、この救いの恵みを伝えてまいりましょう。

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