『慰めを与える神』
はじめに
本日の聖書箇所から、主は、私たちがいかなる状況の中にあっても、慰めを与えてくださるお方であることを見てまいります。
1.苦難や試練を通して神の慰めを確信する
コリント教会には様々な問題がありました。しかしパウロは、その教会を手紙の冒頭の挨拶の中で「神の教会」と言っています。それは、問題があったとしても、コリントの教会は神の栄光を表すために、神が立てた教会だからです。そればかりではなく、「神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます」(Ⅱコリント1:4)と語ります。それは、パウロ自身、激しい迫害や、死を覚悟しなければならないような苦難(Ⅱコリント1:8)を通して、主なる神こそが慰め主であるということを知ったからです。
パウロは、聖書に通じた律法学者でした。また、復活の主イエスに出会い、主からから啓示を受けて福音を理解していました。しかし、彼は、知識だけではなく、様々な苦難を通して、主なる神がどのようなお方なのかを知ったのです。言い換えるなら、パウロは、人が苦難や試練に遭うことは、主なる神を知る機会となるということを体験したのです。詩篇の著者は「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)と言っています。「神のおきてを学ぶ」とは、神ご自身を知ること、すなわち、神は慈愛と慰め、恵みに豊かに富まれているお方であると知るということです。
パウロは、神は、神を愛する者たちと共に働いて、その御計画のうちに全てのことを益となるようにしてくださることを知りました(ローマ8:28)。だからこそ「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)とも教えて、人々を励ますことができたのです。
2.復活の主イエスにこそ望みがある
パウロは、自分が体験した経験は、「自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるため」(Ⅱコリント1:9)であったことを述べています。これは、キリスト御自身がまず模範を示されたことです(ヘブル5:7)。パウロを様々な危険から救い出された主は、私たちをも救い出してくださることを覚えましょう(Ⅱコリント1:10)。私たちが苦難を受ける時、拠り頼むべきお方は、主イエスを死よりよみがえらせてくださった神お一人です。この神に頼む時、いかなる絶望的な状況の中であっても失望せず、勝利の人生を過ごすことができることを感謝しましょう。
パウロは、死が迫っていても、望みを失いませんでした。それは、主イエスを死者の中から復活させてくださった神が、常に自分と共におられることを確信していたからです。私たちも、自分が苦しみの中にいる時にこそ、復活の主が共にいてくださることを覚えましょう。
私たちはどの様な状況にあっても、信仰によって希望を持つことができます。この希望は、決して失望に終わることはありません(ローマ5:5)。主イエスの復活の命に生かされているという希望こそ、私たちの「慰め」です(Ⅰコリント15:20-21)。そして、この慰めが私たちに与えられているので、この主にある「慰め」をもって他者をも「慰め」ることができることを覚えましょう。
まとめ
主なる神だけが、真の慰めを与えてくださるお方です。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです」(ヘブル4:15)。ですから、私たちは、慰めや憐れみを受けるために、主の恵みの御座に行くことが許されていることを感謝しようではありませんか。