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『からし種ほどの信仰』

説教:髙橋正人 牧師
聖書箇所 ルカ17:1-10

はじめに

本日は,主イエスが「赦し、信仰、奉仕」について、主に従う者たちに対して語っておられる箇所から、共に見てまいります。

1.つまずかせるな、つまずくな

ここで、主イエスは、主に従って生きる者の姿について教えています。最初に主は、「この小さい者たちのひとりに、つまずきを与える」者はわざわいだと語られます。ここで言われている「つまずき」とは、信仰の歩みの邪魔をし、主を信じて喜んで主に仕えて生きることを妨げることです。ここでは、具体的には、パリサイ人や律法学者たちが民衆に与えたつまずきのことを示しています。彼らの厳格な律法主義に表された、自分たちの信仰深さや正しさを主張することが、かえって他の人々をさばき、疎外することとなっていました。

主は、「つまずきが起こるのは避けられない」(ルカ17:1)とも語られています。私たちが主を信じて生きようとする時、主から私たちを引き離そうとする「つまずき」は、常に私たちに降り掛かってきます。そのような時、私たちはつまずきを相手に与えないことはもちろんですが、たとえつまずくような事を受けたとしても、心を守り主を信じ続けて、決して主から離れてはならないことを覚えましょう。「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」(箴言4:23

主にある兄弟姉妹の間で起る「つまずき」に対して、主イエスは「もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。そして悔い改めれば、赦しなさい」(ルカ17:3)と教えています。罪を見ても見ぬふりをするのが赦しではなく、罪を悔い改めて、主との交わり、兄弟姉妹との交わりを回復することが大切なのです。主イエス御自身は全く罪のないお方でしたが、私たちの罪のさばきの身代わりとして十字架にかかってくださいました。主御自身が私たちを赦してくださったように、私たちも主に赦されたものであることを覚え、「へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思い」(ピリピ2:3)、主から頂いている賜物を用いて「互いに仕え合いましょう(Ⅰペテロ4:10)。

2.主のしもべとして生きる

「つまずき」や「赦し」という主イエスの教えを聞いて、弟子たちはそれを実際に行うためにはよほど信仰が増し加えられなければ不可能だと考えたことでしょう。私たちも同じ事を感じるはずです。だからこそ、弟子たちは「私たちの信仰を増してください」(ルカ17:5)と主に願います。主イエスは、「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があったなら、この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、言いつけどおりになるのです」(ルカ17:6)と答えられます。弟子たちは、信仰について思い違いをしていました。信仰があるということは、主との関係の中で、単純に主に従うということです。そのことを、主イエスは主人としもべのたとえとして教えています(ルカ17:7以下)。

主イエスは、「主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。・・・主人は彼に自分の全財産を任せるようになります」(ルカ12:43-44)とも語られました。クリスチャンが主のしもべであることを自覚して、主の御心に従って生きることを、主は喜んでくださいます。罪人であった私たちは、十字架の贖いによって永遠の命にあずかる者とされました。私たちは、主のしもべとして、主を信じて人生を喜んで歩んでまいりましょう。

まとめ

私たちは、からし種ほどの信仰によって、主イエスの十字架の贖いを知りました。その主イエスの救いを信じることによって救われ、主に仕える者とされました。主イエス御自身が、まず最初に私たちに仕える者、しもべとなって十字架にかかってくださったことを覚えましょう。その主イエスのしもべとして仕えることは、私たちの特権です。主イエスは「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です」(ヨハネ15:14)とも語ってくださいました。主に従って生きることのさいわいを感謝しましょう。

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