『聖なる者、神の子と呼ばれる者』
はじめに
クリスマスおめでとうございます。本日は、「受胎告知」として知られている聖書箇所から、ご一緒に主イエス・キリストの御降誕を見てまいります。
1.御使いのお告げ
御使いガブリエルは、救い主の母として主に選ばれたマリヤに、「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と挨拶をしました。マリヤは、この御使いの言葉にひどく戸惑いました。これは、自分の考えや思いをはるかに超えた主の御手の働きのためでした。御使いは、戸惑うマリアに、主からの恵みの内容を告げます(ルカ1:30-31)。
私たちの人生において、想定外のことはいくらでも起こります。しかし、私たちクリスチャンにとって幸いなのは、御使いがマリヤに告げたように「主がともにおられる」ということです。主が共にいてくださる時、私たちのうちに起こることは偶然ではなく、主の御手にあるということです。ひとり子である御子をも惜しまないほど、私たちを愛して止まない主が共にいてくださること、これ以上に、私たちに幸いはないことを覚えましょう。
2.マリヤのとまどいと決断
御使いはマリヤに主の言葉を告げました。人間的に見るならば、御使いは、マリヤの人生に大混乱をもたらしたということができます。当時のユダヤ人社会では、婚約中に子どもを産むということは律法違反であり、死罪に当たることでした(申命記22:23-24)。自分だけではなく、夫となるヨセフにも大きな苦しみを与えました(マタイ1:19)。最後には、息子イエスが十字架にかけられている姿を目の当たりにしなければならなかったのです。
しかし、マリアは「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」(ルカ1:38)と信仰によって主の御心を受け入れます。彼女は、自分の人生の全てを主に委ねて自分自身を主に差し出し、救い主の母とされたのです。
私たちの人生においても、思い通りにならないこと、あるいは、突然襲いかかってくる試練や困難があるでしょう。しかし、そういう時こそ主が私たちの生活に介入される時であり、御言葉を深く体験する時であることを覚えましょう(詩篇119:71)。
3.キリストのへりくだり
マリヤの信仰姿勢は、後の初代教会の主に従う姿勢であり、私たちクリスチャン一人一人の姿でもあります。マリヤは私たちと同じく、神の前に一人の罪人でしかありません。罪の全くない御子イエスがこのマリヤに宿ったのは、マリヤが主の前に義なる者で、主の前に祝福を受けるに相応しかったからではありません。これは、罪のない御子が、罪ある人と同じくなられるために天からくだって来てくださった御子の謙遜によることです(ピリピ2:6-8)。この神の側の一方的なへりくだりこそが、クリスマスの出来事です。私たちはここに、主の御計画の偉大さを見て、主の御名をほめたたえるのです。
まとめ
私たちはイエス・キリストを救い主として信じる信仰によって、神の子とされ、神の民とされました。それは、神自らが人となられて、この罪の世に来てくださったからです。主は、御子を私たちの世に遣わすために、名もないマリヤというひとりの女性を選ばれました。主がマリヤを選ばれた理由は聖書には記されていません。救いの御業は、ただ主の一方的な恵みによることだからです。「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです」(エペソ2:5)私たちは「聖なる者、神の子と呼ばれ」る主イエス・キリストの御降誕を覚え、主の御名をほめたたえてまいりましょう。