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『救いの泉から水を汲む』

説教:高橋正人 牧師
聖書箇所 イザヤ12:1-6

はじめに

これまで、預言者イザヤを通して、主に対する罪のためにイスラエルの民はバビロンに捕囚され、散らされていたことが語られてきました。ここでは、将来、主の哀れみによって罪赦されたイスラエルの民が祖国に帰還し、民が喜びと感謝の声をもって主をほめたたえるようになる預言が語られています。本日は、神の救いの御業に対する賛美の歌を一緒に見てまいります。

1.「怒り」を「慰め」に変えてくださる主

「怒り」(イザヤ12:1)とは、民の罪に対する主のさばきのことであり、具体的には、バビロン捕囚を指します。ここで、主は民の罪を赦し、その怒りを去らせて、祖国への帰還を約束する預言をイザヤを通して語られます。

「その日」(イザヤ12:1)とは、直接的にはバビロンから主の恵みによって解放される時のことを表していますが、究極的には、救い主がこの世に遣わされる日のこと、神の国が到来する完成の日のことを表しています。救い主イエスは、クリスマスの日にこの世にお生まれになり、十字架の贖いによって私たちを罪と死から解放してくださっただけでなく、やがて再臨されるお方です。

バビロン捕囚という主のさばきを通して、イスラエルの民は罪を知らされ、主への悔い改めへと導かれました。今日、主イエスの十字架の贖いによって、私たちに降りかかる苦難の意味は変わっています。苦難は主の怒りや呪いの結果ではなく、人を主の前にきよめて整え、真理を悟らせ、信仰を成長させて、さらに深い主の恵みの中に導くものです。主からのすべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせることを覚えましょう(ヘブル12:11)。主は「怒り」を「慰め」に変えてくださるお方です。

2.主イエスは救いの泉

聖書が語る「喜び」とは、直接的に聖書の中心テーマである「救い」ということに深く関わっています。真の救いは、主から与えられるもので、人を感謝と喜びで満たし、主を賛美せずにはいられなくなるほどのものです。その主の救いは、何よりも「喜びながら救いの泉を汲む」(イザヤ12:3)こととして表現されます。乾燥地帯においては、水はとても大切なものです。イスラエルの歴史において、水をめぐってはさまざまな事件が起きているほどです。

イザヤの時代から約700年後の主イエスの時代もそうでしたが、仮庵の祭りの最中、祭司たちは七日間、毎日、シロアムの池から汲んだ水を、神殿の祭壇まで運んで注ぎました。その時、イザヤ書12章が全会衆によって朗読されたことが伝えられています。その祭りの終わりの大いなる日に、主イエスは神殿の中に立って大声で、「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ7:37-38)と宣言されました。

イザヤ12章で、「救いの泉から水を汲む」と記されていますが、「救いの泉」とは主イエス御自身のことです。主は、ご自分という救いの泉から命の水を飲むことを、イザヤの預言の成就として語られたのです。私たちは今、主イエスという無尽蔵の救いの泉から溢れるばかりの命の水をいただくことが許されていることを覚えて、主に感謝してまいりましょう。

まとめ

この時代に生かされている私たちは、主イエスという救いの井戸から命の水を飲むことが許されています。このキリストという命の泉は、汲んでも汲んでも涸れることのない豊かな泉です。救いの泉から水を汲んだ者の喜びの応答は、主に感謝すること、御名を呼び求めること、主の御業を語り告げることに表れます(イザヤ12:4-5)。永遠に尽きることない救いの恵みを主から頂いていることを覚え、永遠に主を喜び、感謝をもって御名を賛美してまいりましょう。

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