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『狭い門から入りなさい』

説教:高橋正人 牧師
聖書箇所 マタイ7:13-14

はじめに

「狭い門から入りなさい」とは、一般にもよく知られている御言葉の一つですが、聖書が言っていることとは違った意味で理解されていることの多い言葉でもあります。今朝は、この御言葉について、主イエスが言われたことの真髄を、ご一緒に見てまいります。

1.狭い門と広い門

狭き門」というと、一般的には入学試験や入社試験などのように、極僅かな、選ばれた者しか入ることができない難関を指していると受け取ります。しかし、主イエスが教える「狭い門」はそれとは全く異なり、主を信じ、神を中心として生きることを意味しています。

逆に、広い門から入るとは、神中心ではなくこの世の価値基準や人の判断を基にして、人間の能力や知恵、知識によって生きることです。多くの人は、神を信じるより、自分を信じる人生を生き、自分の望むとおりの幸いを得ようとします。しかし、人の作り出す価値基準は常に変化し、真の幸いを得るどころか、滅びに向かっていることもあるのです。「人の目にはまっすぐに見える道がある。その道の終わりは死の道である」(箴言14:12)。私たちは狭い門、狭い道であっても、イエス・キリストを信じる信仰によって命に至る門を通り、キリストの命に溢れた人生を歩んで行こうではありませんか。

2.狭い門から入りなさい

命に至る狭い門であるイエス・キリストは、「私の所に来なさい」といつも語りかけてくださっています。しかし、人は主イエスの十字架の救いに目を留めようとせず、主イエスの救いがあることを知っても、御言葉が善いものであることを知っても、主を信じる人は少ないのです。それは、主の救いの御業である十字架が、人間の目には愚かに見えるからです。しかし、この狭い門である主イエスこそが、真の救いを私たちに与え、永遠の命に導く唯一のお方であることを覚えましょう(Ⅰコリント1:18)。

主に創造された私たちにとって、自己中心的に生きることが幸いなのではなく、主と共に生きることが、人として一番ふさわしい生き方であり幸いなのです。主イエスだけが、罪人を救う唯一のお方であり、このお方以外に天下のだれにも救いは与えられていないからです(使徒4:12)。主イエスこそが、救いの門です(ヨハネ10:9)。この主イエスを信じ、真の主の命に溢れる人生を歩んで行きましょう。

3.狭い門こそが命の門

主イエス御自身が狭い門を通られ、狭い道を歩んでくださいました。それは、十字架への道であり、私たちの罪の身代わりとして死んでくださることでした。しかし、人に捨てられ、十字架で死なれた主イエスを、父なる神はよみがえらされました。主の死者の中からの復活は、キリスト者の最大の希望です。

主は私たちに、この命の門と、それに続く命の道を見い出すための信仰の目を与えてくだいました。そのことを最初に知った主イエスの弟子たちは、主イエスの救いを命をかけて語り伝えました。それは、主イエス以外に救いを与えてくださるお方はおられないことを知ったからでした。

主イエスこそが、過去、現在、将来にわたって、私たちを救うお方であることを信じましょう。「主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(申命記31:6)と約束されています。主イエスと共に歩む道ほど安心で祝福に満ちた歩みはありません。

まとめ

この世の道は、広く進みやすい道です。しかし、そこで得たものは永遠に残るものではなく、私たちを真の命に生かすものでもありません。むしろ、それらは人を永遠の滅びに至らせる道でもあります。主イエスを信じて歩むことは、人の目には狭く困難な道と見えますが、私たちを豊かな命へと至らせます。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)主イエスの招きに応えてまいりましょう。

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