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『キリストの命にある新しい歩み』

説教:高橋正人 牧師
聖書箇所 ローマ6:1-14

はじめに

クリスチャンは、主イエスの十字架の贖いによって、キリストと一つにされた者です。これによって、私たちは罪から解放され、新しく主の命に生きる者とされました。そのことを、パウロはバプテスマのたとえで説明をしています。

1.キリストと共に罪に死ぬ

パウロは、先のローマ5章において、私たち人間はすべて、最初の人であるアダムの子孫で、罪の支配のもとにあることを述べてきました。罪の結果は死というさばきであり、人は全て例外なく死の支配下に置かれています。この罪による死は、肉体の死ばかりではなく、究極的には命の根源である主から完全に離された霊的な死を意味します。

罪は、主によってのみ赦されるもので、人間のいかなる方法をもってしても決して解決できるものではありません。ですから、父なる神は、そのひとり子イエスをこの世に遣わしてくださいました。この第二のアダムなるイエスの十字架の贖いによって、主イエスを信じる私たちは罪を赦されたのです。

この罪の赦しを象徴するものが、バプテスマ(洗礼)です。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによってキリストとともに葬られ、父なる神が主イエスを死者の中からよみがえらせたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするようにしていただいたのです(ローマ6:4)。 キリストの新しい命にあって生きる者とされていることを、感謝しましょう。

2.新しいキリストの命に生きる

私たちは罪に対して死んだ者です。しかし、この世にある限り、罪は依然として私たちを支配しようとします。私たちは惑わされてはなりません。パウロは、「あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」(ローマ6:11)と教えています。私たちクリスチャンは、もはや罪の奴隷ではないこと、新しい主の命に生かされていることを自覚しましょう。

罪に支配されないために、私たちは自分自身を、主の義のための道具として神に捧げなければなりません(ローマ6:13)。私たちは、主イエスに贖われ、「死者の中から生かされた者」として、主のものとされました。ですから、自分自身を神に捧げることが許されているのです。それこそが、キリストと共に復活した者として、新しい命に生きることに他なりません。洗礼は、キリストにある新しい命に生きる人生のスタートを表しています。

まとめ

「キリストにつぎ合わされた」者となったということは、キリストにおいて起こったことが私たちのものとなる、ということです。私たちの救いのために、主イエスは十字架にかかって死んでくださり、三日目によみがえってくださいました。この主イエスを救い主として信じる時、主において起こったことが、自分のものとなります。すなわち、洗礼において死の姿にあずかったのなら、復活の姿にもあずかっているのです。「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。」(ローマ6:4)主イエスからいただいた新しい命を生きて行きましょう。

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