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『神の食卓に集う幸い』

説教:高橋正人 牧師
聖書箇所 ルカ14:15-24

はじめに

主イエは、神の救いについて、ある人が催した盛大な宴会のたとえをもって説明されます。今朝は、このたとえから、主の救いの招きに対する応答についてご一緒に見てまいります。

1.盛大な宴会のたとえ

ある主人が盛大な宴会を催し、前もって大勢の人たちを招待していました。招かれていた人々は二度にわたる丁寧な招待を受けましたが、みな同じように断りました。断りの理由は、それぞれ正当なものといえるでしょう(ルカ14:18-20)。しかし、それを聞いた主人は怒りました。この主人とは、父なる神のことで、招待とは神の救いへの招きです。父なる神の御心は、全ての人が神の宴会、すなわち、神の救いを受けることです。

神の国への招きを断るということは、現代的に言うなら、神よりももっと大切なことが自分にはある、だから、教会や信仰は二の次、三の次ということと同じです。しかし、実際は、永遠の命に関わる神の招きを断る以上に愚かなことはありません。主イエスは言われます、「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:26)と。

2.主は全ての人を宴会に招いておられる

主人は、宴会の招きを断られたからといって、会を閉じることはしませんでした。主人はしもべに「街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい」(ルカ14:23)と命じます。このことは、なんとしても、神と人とが喜びを共にする祝宴を実現しようとされる、主の熱心さを示しています。

父なる神は、一人でも多くの人が救いにあずかり、神の国で食事の席に着くことを望んでおられます。この主の招きは、来たい人は来て、来れない人は来なくても良いというものではありません。父なる神は、御自身のひとり子イエスをこの世に遣わされ、十字架の苦しみと死によって、全ての人々に救いの道を開いてくださいました。

「きょう、もし御声を聞くならば、荒野での試みの日に御怒りを引き起こしたときのように、心をかたくなにしてはならない。」(ヘブル3:7-8)。また、「『わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた』確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」(Ⅱコリント6:2)私たちは、父なる神の救いの招きに、直ちに応えようではありませんか。

3.信仰生活は、神の宴会の前味

私たちは、目の前にある世のものに心を捕らわれ、あたかもそれが、私たちの生活を支える全てと錯覚しがちです。確かに、世のものは、一時の楽しみや慰めにはなるかもしれません。しかし、それらは永遠に存続するものではなく、やがては過ぎゆくものです。主が与えてくださるものは、世が与えるものとは全く違い、いつまでも残るものです。主と共にあることの幸いは、世の何ものによっても代えられません。

主が招いてくださる宴会は、主イエスの再臨の時にだけ与えられるものではありません。今現在の私たちクリスチャンの日々の信仰生活の中に、すでに与えられています。教会が与えられ、御言葉が与えられ、聖礼典(洗礼式、聖餐式)が与えられ、約束の聖霊が与えられて、その聖霊に導かれて生きるということ、それら全てが神の宴会の前味ということができます。私たちは、主が招いてくださっている宴会の招待を、感謝していただきましょう。

結び

父なる神の宴会に最初に招かれていたのは、選びの民ユダヤ人でした。しかし、彼らはその招きを拒み、父なる神の御心を損なってしまいました。ゆえに、主イエスは、異邦人である私たちを神の宴会の席に招いてくださったのです。人は罪のために、その招きを無視したり、さまざまな言い訳をして断っています。しかし、主は常に私たちを招き続けてくださり、神の国の食卓に着くようにと待っておられます。主イエスの救いの招きを受けたなら、直ちに感謝をもって受け取りましょう。私たちはこの地に生きる限り、主の宴会の前味をいただきながら、再臨の主イエスを待ち望んでまいりましょう。

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