『刈り入れを待つ畑』
はじめに
ハレルヤ!新年のご挨拶を申し上げます。今年の教会標語は「収穫の場へ遣わされよう」です。今朝は、この標語の基となった御言葉をご一緒に見てまいります。
1.何をするにも、神の栄光を現すために
食物を買いに町へ出かけていた弟子たちが主イエスの所に戻ると、主は「わたしには、あなたがたの知らない食物があります」(ヨハネ4:32)と応えられました。弟子たちは、誰かが食べ物を持って来たのかと不思議に思っていましたが(ヨハネ4:33)、主は、「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です」(ヨハネ4:34)と語られました。
ここで主イエスが語っておられることは、霊的な食物についてのことです。私たち人間が生きていくためには、食物が必要です。しかし、人間には、肉体を維持するための食物だけではなく、霊的に健やかに生きるために、霊の食物が必要です(申命記8:3、マタイ4:4)。主イエスは、この霊の食物をよく知っておられ、その食物をいつも食していました。それは、主イエスをお遣わしになった方、つまり父なる神の望んでおられることをこの地上で行い、父なる神が成し遂げようとしておられる救いの御業のためにご自分を捧げることでした。
主イエスが父なる神の御心を行い、その御業を成し遂げられたように、私たち一人ひとりが、主から与えられている使命に生きることは不可欠です。それは、主に仕えることによって霊的な命が養われるからです。私たちは誰でも、主の使命に生きる者として召されています。何をするにも、主の栄光を現わすために生きる、それが人間の生きる力の源なのです。「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」(Ⅰコリント10:31)
2.主は私たちを刈り入れ場に招いてくださる
主イエスは、「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」(ヨハネ4:35)と弟子たちに言われました。これは、目の前に見える麦の畑ではなく、「神の畑」のことを言われたのです。弟子たちが町に食物を買いに行っている間に、主イエスはサマリヤの女に神の福音を伝えました。サマリヤの婦人は、イエスが「キリストと呼ばれるメシヤ」(ヨハネ4:25-26)であることを知り、町へ行って人々にイエスのことを知らせました。それを聞いた町の人々は、イエスの所に来て、イエスの言葉によって主を信じました(ヨハネ4:41)。
サマリヤの婦人の救い、スカルの町の人々の救いについて、弟子たちは何が起きているのか全く知りませんでした。彼らはただ、多くのサマリヤの人々が主イエスのところに来て信じるのを見ただけでした。先に、御言葉の種を蒔いてくださったのは主です。「わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」(ヨハネ4:38)
種を蒔く者は、収穫を待って、実りの時が来たら刈り取りをします。しかし、「神の畑」には「ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る」とあるように、それぞれの働きがあります。それは、「蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです」(ヨハネ4:36)。収穫の場での働きは、それぞれ異なりますが、大切なのは、主がその場に遣わしてくださっているということです。私たちはこの年も、主が用意してくださっている収穫の場に遣わされて、主が招いておられる喜びに、共にあずかるものとなりましょう。
まとめ
新しい年を迎えた私たちは、御霊によって押し出され、収穫の場へと遣わされてまいりましょう。収穫の時はすでに来ていると主は言われました。多くの人が主イエスにある命溢れる豊かさの中で喜んで生きることができるようになるために、御言葉を宣べ伝えていく者とならせて頂きましょう。主は私たちを、それぞれの場所に遣わしておられます。仕事も学びも、私たちが置かれているところで、主の栄光のために共に主の前に励み、前進して行く一年とさせてていただきましょう。