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『主が共におられないなら』

説教:高橋正人 牧師

緒 論:

偉大な指導者モーセは、主の臨在こそが全てであることを知っていました。彼は主にイスラエルと共に約束の地へ行ってくださることを祈り願い、その祈りは聞かれました。今朝はモーセの執り成しの祈りから、ご一緒に学んでまいりましょう。

Ⅰ.モーセのとりなし

  • 主は、心がかたくななイスラエルのゆえに、民と共に約束の地に行かないことをモーセに告げます。これを聞いて、モーセは民のために主の前に執り成します。このモーセの祈りは聞き入れられます。モーセは、主の心を自分の心としていました(出エジプト33:1)。主が共におられないなら、目的が達成され、成果を得ても、いっさいは空しいのです。
  • 主イエスは、モーセを遙かに超えた救い主です。主は地上におられた時、父なる神の御心を完全に行われました。キリストは永遠の大祭司として、今も私たちのために執り成していてくださいます。「ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。」(ヘブル7:25)この主に私たちも倣い、執り成しの祈り手とならせていただこうではありませんか(Ⅰテモテ2:1)。

Ⅱ.神の聖さによって分かたれた民

  • 主の臨在は「聖」そのものです。モーセはそのことをよく知っていました。彼は、主の臨在こそがイスラエルの民を地上の他の民と区別する(聖別する)ことを述べています。(出エジプト33:16
  • 「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない」(レビ記19:2)とあります。私たちは、主イエスの十字架の血潮によって聖別された者としてふさわしい生き方をしなければなりません。主が共におられるなら、私たちは主が歩まれたように歩みたいと願うはずです。その時、自ずと周囲にも神の聖なる民としての品性が現されます。「神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。」(Ⅰヨハネ2:6

Ⅲ.永遠の命は主を知ることである

  • モーセは、主がイスラエルの民と共におられ目指す地へ上られるという約束をいただきましたが、 彼はさらに主ご自身の栄光を見せてくださいと願いました(出エジプト33:18)。しかし、モーセでさえも神の御姿を見ることはできませんでした。いまだかつて神を見た者はおらず、神のひとり子なる主イエスのみが、神を説き明かされたのです(ヨハネ1:18)。
  • 主イエスこそが神の栄光そのものであられます。主イエスは、私を見た者は父なる神を見、また、神を知るのですと語られました(ヨハネ14:7,9)。イエス・キリストを知ることは永遠のいのちに至ることを覚えましょう。「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」(ヨハネ17:3
  • 結 論:

    • モーセは約束の地に入ること以上に、主が共におられることを望みました。主の臨在は、私たちクリスチャンにとって大いなる喜びであり、全ての祝福の基です。主ご自身が勝利の主だからです(ヨハネ16:33Ⅰヨハネ5:4)私たちのあらゆる生活において、主をいつも心にお迎えしてまいりましょう。
    • 私たちのまわりの状況が良くなり、祝福されることは感謝なことです。しかし、もしそこに主がおられなければ一切がむなしいのです(詩篇127:1-5)。主の臨在をなおも求めるため、主を畏れつつ、自身を主にあって聖別された者として整えていただきましょう(詩篇139:23-24)。私たちは御霊の深い交わりを通して、「顔と顔をあわせる」ほどに、主を知ることができるのです。ハレルヤ!
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