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神の訪れの時

説教:山城晴夫師 牧師
聖書箇所 雅歌5:1-8

雅歌は「ソロモンの歌」と言われ、「歌の中の歌」と言われるもので、ソロモンとシュラムの娘との間に交わされた愛の歌である。雅歌が単に、恋愛歌と言われるだけでなく、キリストと教会の間における愛が表されているところに雅歌が正典として聖書の中に入れられている意味がある。したがって、その意味を理解するためにはソロモンの立場にキリストを、シュラムの女の立場に教会を置いて読むことである。

雅歌2:1には雅歌を代表するような「私はシャロンのサフラン、谷のゆりの花」 ということばがあるが、一読してこれをソロモン、すなわち、キリストを表わすものと読み違えてしまうところであるが、実は、これは1:16から続いているシュラムの女のことばで、教会の姿を表している。何処にでも咲いているサフランやゆりのように自分が特別な人間ではなく、平凡な人間であるにもかかわらず、王の新居に迎えられている時の感激のことばである。それは罪人である 私たちが神の国に迎えられたことの感激を表わしている。しかし、彼女のソロモンへの愛は成長していく。雅歌2:16から雅歌6:3へ、さらに雅歌7:10へと深められている。

このように私たちも自己の中にあるキリストからキリストの中にある自己、キリストがすべてとなっていくのである。

ある夜、彼女は夢を見る。夜になり、床に入っていると、愛する者が訪ねて来た。頭は夜露に濡れ、髪の毛も夜のしずくでぬれながら戸を叩いている。彼女は眠っていたが、心はさめていた。今の時代はまさに夜である。このとき教会は花婿なるキリストが来られるのを待っている。キリストは花婿を待つ10人の娘のたとえを話されたが、その中で「花婿の来るのが遅くなったために彼女たちはうとうとして、みな眠り始めた」マタイ25:5と語られたが、現代の教会、クリスチャンの姿を考えさせられる。そして黙示録3:20ではキリストが戸を叩いておられることが語られているところと愛する者の訪問を受けながらも、躊躇しているシュネムの女とを重ねて考え、さらに私たちの姿をそこに重ね合わせることが出来るように思う。

天国は王子の結婚のために披露宴をもうけた王にたとえられている。食事の用意ができたので、招いておいた人たちのところへしもべたちを遣わしているが、畑を買ったからとか、牛を買ったからとか、花嫁を娶ったからという理由で招待を断っているが、キリストが戸を叩いておられるのに躊躇していたら永遠の悲しみを味わうものとなることを知らなければならない。彼女はやっと立ち上がって戸をあけたが、愛する者は背を向けて去って行かれたので、彼女は気を失ってしまった。愛する者は捜しても、見あたらず、呼んでも答えはなかった。イザヤは「主を求めよ。お会いできる間に。近くに おられるうちに、呼び求めよ」と言っている。イザヤ55:6 主に帰るなら豊かな赦し イザヤ55:7 と 豊かないのちヨハネ10:10と 豊かな恵みエペソ1:7 とが約束されている。

「おまえたちの中、ひとつの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日がやって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ」ルカ19:44

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