考えることの大切さ

・21世紀になり、社会や世界の変化が一段と激しくなりまたスピードアップしてきたように感じます。それは高度に情報化が進んだことにもよるかと思いますが、いろいろな変化が加速化して来ているのは事実です。地球の片隅に起こった出来事が、瞬く間に世界中に伝わってしまうことには驚くばかりです。このように極度に進んでいる情報化社会でもまだ伝わってこない多くの隠された情報が存在するのも事実のようです。
・このように情報化が進むと、我々が考える前にいろいろな情報が提示されるので人間は考えることが少なくなってきているように思えます。あれこれ自分で思索をめぐらす前に、答えが目の前に用意されているようなもので、自分で考えたり判断したりすることが少なくなってきているのではないでしょうか。しかし同時に、表面に出てこない隠れた部分にも目を向けなければならないし、思いを巡らさなければならないのだと思うのですが、なかなかそこまでは及ばないことが多々あたるようです。
・私は、これは極めて危険な兆候ではないかと危惧するのです。かのパスカルの「人間は考える葦である。我々の尊厳のすべては考えることのなかにある」という言葉を待つまでもなく、生物としては極めて弱い存在であるにもかかわらず、人間は考えることによってその尊厳性を保っているのです。聖書にも、主イエスはこの弱い傷んだ葦を折らずに用いてくださると記してあります。
・しかし考えることを放棄した人間の行動には極めて恐るべきものがあります。ユダヤ人大虐殺の首謀者ともいわれるアイヒマンの裁判を記録した20世紀のユダヤ系哲学者ハンナ・アーレントが、彼がイスラエルの裁判で「私は上から言われたことをしただけだ」と述べたことをとらえてこう述べているのです。「世界最大の悪は、ごく平凡な人間が行う悪です。そんな人には信念も邪心もなく悪魔的意図もない。人間であることを拒絶したのです」と。そしてそれを“悪の凡庸さ”と名付けているのです。
・私は、これが20世紀のあの国にだけで起こった特殊な現象だとは思えないのです。情報化の進んだ現代世界においてもこのような現象は起こりうるのだと思います。現に我が国においても知らず知らずのうちに、時計の針が逆回りをして数十年前の時代に後戻りしてしまったかのような印象を受ける時がしばしば見受けられ、知らず知らずのうちに取り返しのつかない状態に追い込まれて行かないか心配になってきます。もはや我が国の人々が同じ過ちを繰り返すことはないと信じつつも、多くの人々がどこまで深く時代を見つめ、我が国の行く末を考えているのか心配になる現象が見えてきます。昭和・平成と時代を過ごしてきた今、歴史の教訓をしっかりと咀嚼して世界に冠たる平和国家として発信していくべき時だと思うのですが、なぜか大きな流れに巻き込まれてしまいそうな危険を感じます。何かアーレントが言う“考えることを失ったごく平凡な人々”の群れに囲まれてしまいそうな気がしてなりません。もう一度しっかりと考える、人間の尊厳性を取り戻したいものです。                (S・M)

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