「真の平和を求めて」

・喧噪の中で2016年が明けました。このところ年々世界の動きが騒々しくなってきているのを肌で感じます。世界中至る所で対立が目立ち、小競り合いが起こっています。かつては、世界の警察官を自他ともに認めていたアメリカが何らかの形で動き、事態を大きくならないように治めてくることができていたのですが、近年その動きが見えなくなってきています。それはアメリカが過去の反省に立ち、世界の動きへの介入を控えるようになった結果で、好ましい展開ではないかと思う反面、各地でてんでに自己主張を始め争う姿が目立つようになってきており、どこかで誰かに仲裁に入ってほしいと願うこともあります。しかし、アメリカの実力もかつてほどではなく、また地力をつけてきた各国の争いは簡単には治めようがなくなってきたのも事実ではないかと思います。まさに、20世紀後半に世界を席巻したアメリカの覇権(パクスメリカーナ)が衰えてきた結果ではないかと思われます。
・地上世界の平和は、パクスロマーナ以来歴史上強大な権力を持つ国が出現した時に比較的長期にわたり安定した時代が続いてきたことがありましたが、いずれも栄華を誇る時は長続きせず、やがては滅んで行ってしまった歴史の繰り返しです。昨年からこの年始にかけ世界の不穏な動きはますます増幅しているように思えます。パリでの連続テロ事件をはじめ、南沙諸島をめぐる動き、ヨーロッパにおいて大量に発生したシリヤ難民等とその受け入れを巡って発生している諸問題、そして今年に入っての北朝鮮の水爆実験などもはや手が付けられない状態になって来ています。肝心のアメリカではイスラム教徒に対する差別発言が目立ち社会的に不穏な状況を作り出しつつあり、平和とは程遠い雰囲気になっています。もはや力の均衡によって作り出される平和を求める時代ではなくなってきているようです。hu02[1]
・それでは本当に平和を求めるとはどういうことなのでしょうか。私は、今こそ聖書に聞きたいと思います。主イエスは「私は平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。」(ヨハネ福音書)と述べておられます。そしてそれは「この世のものとは異なる」と言うのです。勿論私も日本国憲法が示す平和の大切さを尊重するのですが、ここで言う平和とはそれとは異なる、いわゆる人間社会のさまざまな害悪や矛盾という闇がないところで光り輝く状態とは違うのです。いやむしろ、その闇の中で光が輝き出る、そういう平和です。闇や暗さがなくなり、不平・不満がなくなるということではないのです。暗さは暗さとして依然存在する。不平は絶えないのです。しかし主イエスはそういう私たちの人生の闇に、この世の闇の只中に入ってこられ、その闇の中で輝き、ご自身を犠牲にして平和を創られ、道を示されたのです。その道を辿ることが平和への道なのです。今こそ真剣に聖書に耳を傾けたいと思います。             (S・M)

カテゴリー: 未分類 |