「人は何のために生きるのか」

厳しい暑さの日々が続いています。その暑さをさらに過熱するかのように連日大きな事件や事故の報道があり、多くの貴重な生命が失われていくのを見聞きさせられて、毎日心重いものを感じています。改めて人の生命の尊さを感じるとともに、我々は一体何のために生きているのか考えさせられます。それについていろいろなアンケート調査などが行われていますが、大方の回答は「L M N」のために生きるということに集約されそうです。
L=Love M=Money N=Name 、すなわち「愛と富と名声」です。
でも、本当にそれでよいのでしょうか。現実を見ながらとてもむなしいものを感じるのは私だけではないでしょう。旧約聖書の詩篇90篇の中にもこんな言葉があります。
「われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。」まさに人間にとって生きることが酷なんだと言っているのです。
でも私は同時にその聖書の中に明快な回答を見ることができます。ルカ福音書12章の中で主イエスはたとえ話をもって教えている箇所がありますが、その中では大豊作に浮かれて、作物の収蔵のために倉を大きくし、「安心して食べ、飲み、楽しもう」と考えている金持ちの人間に対して「愚か者よ、お前の魂は今夜取り去られる」のだと宣告しているのです。自分のために蓄えてもそれは全くむなしいことなんだと教えているのです。
私たちの人生は、実に短くはかないものです。あっという間に過ぎ去る限られた時間の中で生きており、悠久の歴史からみたらほんの瞬間に生きるに過ぎない小さな存在です。しかし人間の死は肉体の滅亡を意味しますが、その魂は永遠に生き続けていく存在なのです。この地上の人生では、いろいろな制約があり、自分の思うようにいかず、弱さやみじめさを感じることがしばしばです。しかし、今はどれほど困難があっても神の永遠という長いスパンの中にあることを考えると人生が違って見えてくるはずです。短い人生の中で 我々が経験したことだけで、幸不幸を決めつけることはできません。
旧約の記者(イザヤ)はさらにこのように記しています。「見よ、わたしが大いなる苦しみにあったのは、わが幸福のためであった。あなたはわが命を引きとめて、滅びの穴をまぬかれさせられた。これは、あなたがわが罪をことごとく、あなたの後に捨てられたからである」。永遠を見つめ、静かに自分の人生を見つめ直す機会をもちたいものだと思います。(S・M)

カテゴリー: 未分類 |