想像力の欠如

先だって、「チェルノブイリと福島」という講演会に出席してきました。28年前のあのチェルノブイリでの大事故がいまだに尾を引いており、今回の東電原発の放射能汚染汚染も無関係ではないと感じていた者として、改めて多くのことを学ばされてまいりました。今あまり公の話にはなっていないようですが、福島県における子供への健康被害調査によれば、子供への甲状腺がんの影響はかなり深刻なものになっているように感じます。

今回の講演会でも、つい2週間ほど前にチェルノブイリの現地視察から帰ってきたフォトジャーナリストの広河さんからの生々しい現地報告がなされ、28年経過しているにもかかわらず、いまだに原子炉を石棺で覆う作業が延々と続いていることや、つい10年ほど前に視察に行ったときには安全だと言われて宿泊した近くの町が、今回行ってみたら全く人の住まない廃墟となっていたなど、時々刻々広がっている放射能汚染に慄然とするものを感じます。また、ウクライナから当時4歳だった少女が、甲状腺がんと戦いながら出産して、現在一児の母になっている女性が来日して、体験談を語っておられたのも印象的でした。

国際的な原子力事故評価の尺度では、このチェルノブイリと同等のレベル7という最高レベルに位置づけられている福島なのに、日本国内ではあまり騒がれていないのはなぜなのかと疑問に感じます。という自分自身今までそれほど深刻には考えてこなかったのですから、どうしても他人事という感覚に陥ってしまうのでしょうか。しかし原発再稼動とか、原発輸出という報道をきくと、本当にこれで良いのか深く考えさせられてしまいます。

これだけメディアが普及し世界中の出来事が瞬時に届くようになり、いろいろな情報の量が増えきてきても、残念ながら自分を軸としてにしてしかものを見たり考えたりできないことが多く、他人の痛みや苦しみがなかなか実感としてとらえられない身勝手さを感じます。

私は、それは私の中にある「想像力の欠如」が原因なのではないかと思います。相手のことを自分の尺度で理解しているつもりになっているものの、自分とは異なる相手のうちにあるものへの理解が全く届いていないのです。現在多発している多くの犯罪行為にも、想像力の欠如が原因ではないかと思われることが多くみられます。それは、自分とは違う世界、自分を越えた世界が分からないからです。理想を持てず、希望を失った状態では見えなくなってしまっているのではないかと心配になります。

「自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい」と使徒パウロが教えた言葉の重みが今更のように感じられます。心にゆとりを持ちたいものです。   (S.M)

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