殉 教

・自分の生命を犠牲にしてでも守るべきもの、それは家族の生命であったり時には他者の生命であったりします。大切なものを守るために、自分にとって一番大切な自分の命を投げだすという尊い行為には自然と頭の垂れる思いがします。

・それは、昔は国家のために一身を捧げるという行為であったり、自分や家の名誉を守るために命を捨てるという行為でもあったりしました。そしてそれも極めて尊い行為であると思いますが、私はもう一つ別な形で自分の命捧げるという行為があったことを忘れてはならないと思います

・昨年夏、私は久しぶりに文京区の切支丹屋敷跡から始まり、中央区の伝馬町牢獄跡、港区三田にある元和キリシタン遺跡など都内にあるキリシタンゆかりの史跡を見て回りました。実はキリシタン殉教の遺跡は国内各地に広がっており、仙台、米沢、名古屋、京都、長崎、大村など各地の史跡を見るたびに深い感動に心動かされることをしばしば体験してきましたが、この東京にもキリシタン殉教の遺跡があることを考えると一層真摯な思いで向き合わなければならないのではないかと改めて深く考えさせられております。世界にも稀有な大規模の宗教弾圧が17世紀初頭にこの日本で繰り広げられたことが信じられない気がしますが、当時全国各地でキリスト教を信じるということだけで数十万人の信者が迫害を受け、命を落とした者も4千人とも5千人とも言われる大規模な弾圧でした。

・彼らはもし黙って踏み絵を踏みさえすれば命を落とす必要はなかったのです。しかし敢えて命を落とす道を選択したのです。しかも、女性や子供までも逍遥として殉教の道を進んで行ったのです。自分の命を捨てても信仰は捨てなかった彼らの行動の中には、「いのちより大切なもの」が見えていたのかもしれません。彼らには、人間の死を越えて先にある永遠の姿がはっきり見えていたがゆえに、死を少しも恐れることがなかったのではないかと思います。

・人間として大事なこと、それは人の死をもってすべてが終わりを迎えるのではなく、人の死の先にある何物かを追い求めることではないでしょうか。現世だけがすべてではない、永遠に続く何かがあると考える時に、現在の自分の生き方が問われているように思えるのです。                           (S・M)

カテゴリー: 未分類 |