被爆と被曝

   毎年8月を迎えると心が重くなります。それは8月6日と9日の原爆投下の出来事が思い出されるからです。日本国民だけが味わった悲惨な被爆体験です。しかし戦後生まれの方々が国民の4分の3を超える時代になり、このことも風化が進んで来ているようです。

   つい先日のインタビューで,アメリカの前国務長官パウエル氏の「核兵器は極めてむごい兵器だ。軍事的にはもはや無用だ。」という発言が報道され大いに注目しました。世界第一の核兵器保有国であり,唯一の核兵器使用国でもある米国の国務長官だった人物の発言としてどのように受けとめるべきかしばし考えさせられるところであります。まさに、極めて残酷な兵器だと言う認識は我々日本人が一番知っているはずであり、一番発言しなければならない筈であります。世界唯一の被爆国としての日本の存在は重いのです。にもかかわらずこれが日本全国民の声ではなく、広島や長崎の方々だけの発言になりかかっているように思えてならないのです。

   核兵器だけでなく,被曝体験の恐ろしさもつい最近福島原発の事故により痛切に味わった筈です。日本は核の被爆と被曝を二重に体験しているのです。にもかかわらず、福島原発の事故原因究明や廃炉への道筋も全く見えて来ず、使用済み核燃料の最終処分すら目途が立っていない現時点で原発再稼働に向けての動きが始まっていることに信じられない思いです。このままではおそらく第二のチェルノブイリとして、半世紀以上にわたり人が普通の生活をすることが出来なくなる地域が生ずるでしょう。私にはこの日本人としての感覚がどうしても理解できません。のど元過ぎれば熱さを忘れるという国民性なのでしょうか。目の前の経済や政治のしがらみに囚われて唯一の被爆国なのにも拘わらず「核の非人道性」共同声明にも署名しない日本政府。日本人に課せられた人類に対する警鐘を鳴らす役割を放置してしまったこの態度はほんとうに許されることなのでしょうか。つい最近の朝日新聞に報道されていた故丸山真男の「戦争については論じたが原爆の意味をもっと考えなかったことは懺悔です」という言葉をしっかりと受けとめたいものです。

   核兵器と原発、これは決して別次元のことではないことを再認識したいと思います。

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